省察のレポート、神の存在証明をやろうとおもいますが、
同じ筑摩の『省察』でも
文庫と全集はぜんぜん違っていてびっくりました。
最初筑摩の全集 デカルトパスカルのなかにはいっている省察を読んだのですが、
西洋哲学史に負けず劣らずの古さで、読みづらかった・・・
それにくらべて
ちくま学芸文庫の『省察』は現代文になっているので、
難しいデカルトも少し読みやすくなりました。
この文庫のいいところはいくつかあって、
1、後ろのページに さくいんがついている
2、Q&Aがある
3、あとがきが親切
4、文字が全集より大きいww
うん。いいことばかりw
神の存在証明についても
2回に分かれている旨書かれていて
あーー、なるほど。とレポートのヒントをもらいました。
神の存在証明には
明晰判明うんぬんを理解しなきゃすすまないのですが、
残念ながらここでもこの意味がわからず・・・
でも、前回よりは理解度upしたかも
信仰のないひとびとが
神の存在
人間の精神が身体から区別されていることを信じない原因は
誰も論証できていないことが原因である。
と考えたデカルトは
神の存在証明を試みた過去の哲学者たちの
すべての根拠のうち、もっとも優れたものを考究したそうです
第一の命題→われ思う ゆえにわれあり
第二の命題→われは思惟するものであり
この2つの命題から導き出された3つ目の命題が
私が充分明晰判明に表象するのは真である
という考えでした。
この3つ目の命題から神の存在証明が論じられています
この、明晰判明うんぬんは、
テキストだと「私が充分明晰判明に表象するのは真である」
ちくま文庫だと「われわれが明晰判明に理解する一切のものは、我々がそれを理解するとおりに真であるということを知っているということを要求される」
となってます。
文庫のほうよんで、なんとなくわかってきたよう・・・な?
アウグスティヌスは、記憶の原野のおくのさらにおくの内室に神がいるうんぬんいってましたが、
デカルトは「我々のうちにある完全な実有の概念が客観的な実在性を有するのはどうしてか」という問題から
「本人のもつ知識ないし、彼に観念を授けた他者の知識をもたねば不可能」ということから
神の観念は神自身を原因であると かんがえました。
でも、神様って、みえないよね?ようわからんよね?
私たちが神を把握できないのは
私たちが有限で、神は無限であるから、 有限である我々によっては把握されないというのが無限なものの本性だからうんうんと~
この辺からもうさっぱりわからなくなってきたので、
まだまだデカルトとの生活が続きそうです
コメント