嘉慶白蓮教反乱、太平天国による反乱、義和団事件3つの内乱と清朝解体について

こんなレポート書いた記憶全くないんだけど、私のワードに入っていたのであげておきます
ほんとっ・・・まったく記憶にないwwww 

ウィットフォーゲルが清を「征服王朝」と定義したように、清朝は少数の満族が圧倒的多数の漢族を支配する王朝であった。漢族の政権であった明に変わる合法的な政権であることをアピールするため明時代の官僚の登用、科挙制も引きつぎ既得利権を保護したため新政権は支持され、康熙帝から乾隆帝時代には安定を迎え人口は爆発的に増えた。
しかし、乾隆帝の退位後は急速に衰退していき、辛亥革命によって帝政の終焉を迎えることとなった。それは官僚社会の腐敗、アヘン戦争、内乱などが複雑に絡み合って引き起こされたたものだった。晩年になると滅満興漢の運動が各地で盛んになった。
 19世紀、イギリスが世界各地に植民地を展開し、海上帝国を築き上げ世界中に貿易拠点を持っていたが、中国に対しても例外ではなかった。しかし、対中国貿易は朝貢の形式をとっており、対外貿易が制限されていた。中国との貿易は茶を輸入するばかりで、イギリスの毛織物は売れず銀の流出ばかりが増えていたが、対抗手段としてアヘンを貿易に取り込み、利益の拡大を狙ったが、それは戦争にまで発展する。
 眠れる獅子と恐れられた清だったが、英国やフランスを巻き込んだ2度のアヘン戦争に敗れ、西欧列強らの中国占領により半植民地化し、清王朝の支配体制が弱体していったが、それにともない大規模な内乱も発生した。内乱は中国史において珍しいことではなかったが、清朝末期の内乱は、西欧文化に接触したことにより独自の宗教観、ナショナリズムの高揚から来た今までないタイプの内乱であった。
 本レポートでは、嘉慶白蓮教反乱、太平天国による反乱、義和団事件3つの内乱と清朝解体について考えていく。

1. 嘉慶白蓮教反乱
紅巾の乱で広くにしられ、終焉とともに弾圧を受け姿を消した白蓮教が再び増殖したのは明末、清朝はじめにかけてのことだった。白蓮教系宗教結社は「本体」を世界の根源的なる「母」へと擬人化、神格化した 点に特徴がある、終末思想を持つ、マニ教的思想が中核を持ち、多様な教派が連携しつつ反乱へといたった。嘉慶白蓮教反乱では、身体の一部に白い布を着用している。彼らは蜂起直前にいくつかの集団が摘発を受けたために、結果、次々と個別集団が呼応していくように蜂起を起こした。信仰を同じくした信者同志は血縁の関係なしの「共有」がおこなわれ、外の人間には全容が明らかにされない、秘密結社のような形をとっていたが、彼らをはぐくんだ湖北、四川、陝西山間部は清代に入ってから大量の移民が流入してきた地域であり、白蓮教はそのような移民社会に適合しやすかった。土地や血縁に縛られない秘密結社的ネットワークは義和団の源流ともなっており、孫文が宣言していた地権の平均化 という発想の原点ともなっている。

2. 太平天国による反乱
客家洪秀全を指導者としてキリスト教的千年思想を持つ太平天国は、はじめ、孔子像を撤去する伝統破壊者として現れ、世直しに関する革命的思想と巧みな宣伝活動によって信者を獲得していき広西西桂平県金田村を本拠地として大きな集団に成長していった。
 洪秀全はイエスの弟を自称し、世のなかの不正をただすべく新しい国家建設を目指し、37歳の誕生日に「太平天国」の建国を宣言、不正はびこる北京めざし北伐をはじめる。北上する過程で合流するものが続出し、巨大な群れとして北上し、ついには南京を攻略しこの場所を首都とする。
 欧州列強は太平天国に対してはじめは好意的中立を持っていた。太平天国の勝利はキリスト教世界の拡大を期待するものだったからである。しかしキリストの弟自称する指導者のキリスト教理解は宣教師たちの憤慨を招き、アロー号事件の勃発によってその考えは変わっていき、太平天国は治安を乱す反乱軍であった。
 清朝は西欧の侵略、太平天国の北伐に挟まれる形で悩んでいたが、西欧の武器を買い取り、それでもって太平天国の鎮圧を図る政策を第一と決定し、曾国藩がつくりあげた新しい軍事力湘勇をもって太平軍を迎え撃ち、次第に成長の正規軍に変わる重要な戦力として重要性を増し、最後には太平天国の討伐に成功する。
 太平天国の最後は内部抗争、指導者の死亡、李鴻章らの挟撃によって南京が陥落しおわる。
 太平天国の国家建設計画の中に「田があればみんなで耕し、食べ物があればみんなで食う」「どこの人もみな均等にし、一人残らず暖かな服と腹いっぱいの飯を得られるようにする」 とかかげた天朝田畝制度があったが、計画の段階で滅亡した。しかし、この考えはのちの毛沢東の「大躍進」「文化大革命」に継承されていくことになる。

3.義和団による反乱
アロー戦争の敗北によってキリスト教の布教がみとめられたことで、地方各地にキリスト教会が建設され、外国人、外国文化に接する民衆が増えたが、下層民衆をはじめとしてナショナリズムが高揚し、外国に関連するもの、特にキリスト教に対して攻撃と破壊を加える運動も盛んになっていった。その中で大規模に発展したものが義和団運動である。
 義和団の源流となったのは白蓮教などだが、もともと白蓮教は宗教信仰を主内容とする文派、拳棒術によって身体の鍛錬を行う部場組織を持っていたが、後者は農村社会に広い基盤を持っており、キリスト教宣教師らとの衝突に武力で抵抗し、反教会闘争は官軍を派遣し抗戦するまでに拡大する。
 義和団は「扶清滅洋」をスローガンに自らを正義の代理執行人と位置づけ、敵に対しては容赦ない制裁を加えた。民族浄化のための大虐殺をおこなった。中国国内で広がる排外運動について、列強諸国は非難を加え、軍隊を派遣し義和団戦争と発展していく。
 山東から範囲を広げた義和団は1900年北京に入ると、清の高官等に「義民」として受け入れられた。列強8か国は連合軍を打ち取り、北京に入った義和団とたたかい、北京を占領する。
 
 中華人民共和国の成立の後、義和団は中国革命へとつながる反帝国主義闘争であると評価を与えられるが、義和団は西洋人を中国から追放し、西洋からもたらされた宗教や文明を拒否し、さまざまな近代的施設を破壊してしまうという熱狂的な民衆蜂起であり、近代化への抵抗でもあったので、歴史的に評価することは難しい。

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 日本における近代化は「文明開化」という言葉で表される通り肯定的な道をあゆんだが、中国ではそうではなかった。前者は明治維新により積極的に西洋文明を取り入れ、富国強兵の大日本帝国へと勢力を拡大していったのに対し、清は反植民地化、長きにわたる帝政廃止へといたった。

太平天国にて列強の軍事力を目の当たりにした李鴻章らは洋務運動という富国強兵を中心とした各種工場の建設を進めていくことになるが、しかし官僚が私的利益を追求する場となり富国強兵と直接結びつくものとなりえず、のちの日清戦争にやぶれ朝鮮の独立により冊封体制は終焉を迎えることになった。
日清戦争の後列強は中国国内で権益の拡大を図ったが、それによって都市だけでなく村にも洋が入ってきて、外国製品の流入により地場産業は大きく破壊されナショナリズムを高揚させることとなり、義和団事件に発展する。
義和団事件に伴う対外戦争に敗北した清朝は保守派の影響力が後退し、科挙の廃止、新たな教育制度改革が行われたが、清朝を維持するための保守的なものであり、康有為におより、王朝を立憲君主制にあらためるという改革が唱えられたが、帝政廃止の考えは国内からではなく外から帰ってきた「新人類」により提唱された。
改革は留学生の海外派遣にも積極だったが、海外から母国を客観視することができた留学生たちは清朝に対し批判的思考をもち、祖国の自立発展を願い、清に変わる革命勢力に期待をよせるものが多かった。
 留学生の中には、辛亥革命を支える一人になる孫文も含まれていた。孫文はヨーロッパの刺激を受けやすいマカオに近い地に生まれ、ハワイに学び、科挙の洗礼を受けていない、新しいタイプの知識人であり、彼は日本やヨーロッパ各地へ赴き革命と説いていった。
 孫文は「第二の洪秀全になれ」といわれ育ったという伝承 がある通り、太平天国の指導者洪秀全に共通する点がおおい。
 清末に起こった3つの内乱は王朝を支配する満族への反感、西欧文化に触れ、西欧キリスト教文化に共鳴し、近代化への反動によっておこった。それぞれ孫文らに大きな影響を与えた重要な内乱であり、西洋を超える中国の近代をもとめる考えは辛亥革命へと身を結ぶことになる。

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