「孫子・呉起列伝」の富国強兵について

 中国史最古の歴史書である司馬遷の書いた『史記』は、古代中国の歴史を知る上で重要であるばかりでなく、当時の文化、思想、社会情勢を豊かに描き出している。
 『史記』は主に君主を中心とした軍事史、政治史的な側面をもっているが、『史記』の「列伝」に関しては国家の中枢に入って活躍していく個人を描いた作品である。そのため、登場人物たちは必ずしも生まれながらに王族というわけではない。蘇秦列伝 に出てくる蘇秦などは、遊学の末貧窮し帰郷、肉親にあざ笑われながら引きこもりをしていたほどだったが、のちに君主に助言をするほどの人物になっている。
 『史記』の「列伝」を読んでいると、権力中枢に入り込める人物に西洋世界のような厳密な階級区別を感じない。王たちは登場人物たちの血筋ではなく、個人能力をかって、権力中枢に組み込んでいるのが特徴的であり、国の強化のために実力主義に基づく人材募集が行われているように感じる。また、多くの諸子たちも君主に対して「賢者」を任用するように主張 していた。
春秋時代から戦国時代にかけて、強国による小国の併合が進み、世襲的封建制から官僚制へと進展していったが、諸子百家が出現し社会の変化に対応し、国家の制度を大きく変革しようと試みた。史記列伝の中には、突出した能力を持つ人材が世の中を左右する改革を試みる話が出てくるが、他国に勝る国家組織や軍隊組織を先駆けて作ることを目的とした自由競争が展開された時代、兵力を左右する能力のある人材は重視されることになる。  
 一方、世襲の特権を持つ貴族勢力は中央集権化しばしば反抗を起こし、新しい時代にあった行政改革を図った商鞅や呉紀は悲劇的な最期をとげている。
本レポートでは、『史記』の「列伝」に出てくる兵法で有名な「孫子・呉起列伝」を挙げて、司馬遷の描く「富国強兵」を見ていきたい。

1.史記列伝が描く孫子
  中国最古の兵書である『孫子』はまた、人物の名前でもある。『史記列伝』によると、孫子と呼ばれる人物は孫武、孫ピン2人いることがわかる。
最初に出てくるのが孫武である。春秋時代、呉の国王コウロに宮中の女たちを使って軍隊を指揮して見せろという命令に答えた孫武が、命令を聞かない女(国王の愛妾)の左右2人の隊長を斬りころそうとし、それを止めにかかった王に対し「将軍が軍中にあるときは、君主のご命令とてもお聞きできないことがあるものです。」と王の命令を聞かずに女の隊長たちを処刑したエピソードは、国王命令をも否定する将軍の存在が西欧世界とは大きく異なっており、金谷治がいうように、孫武は将軍の職分を特別に重視すること など、現実主義的な人物であるといえる。
 孫武の子孫である孫ピンもまた、兵法をもって権力中枢に入っていった人物の一人である。同じく兵法を学んだホウケンの策略により両足を切断されるが、斉の権力者に能力を買われ、斉の勝利に貢献し、その兵法は後世までつたえられる。孫ピン兵法にもあるように、彼は勝利を得るために君主の信任を得ること、君主は将軍を操らないことを説いている。将軍による軍部統制は、君主の権力を強大化させることに大きく貢献している。

2.呉起の変法
 衛の呉起も用兵の術に精通していて、魏の侯によって採用されたが、「呉起が将軍として部隊にのぞむときには、士卒のうちの最下級者と衣食を同じくし・・・ 」というエピソードで知られるように、清廉公正で能力のあるものを挙用し、士卒の心を掌握するほどであったが、主君が代わり、ひと問題あったのち魏をさり楚に赴く。
そして、楚につかえた呉起は宰相の地位を賜り、法改正を行った。司馬遷によると「不必要な官職を廃して、その供与を戦闘の士の育成に振り分けた」 と記しているように、彼は富国強兵を推し進めるために財政改革、身分改革を行ったことがわかる。「公族でも疎遠なものの官職を廃する」ともあり、それは爵位の世襲を制限したことを意味している。ここでいう旧来の爵位とは諸侯身分だけを問題にする爵位であった 。支配をまかされる都市が次々に変更されても身分は安堵される爵位が問題になった のである。自らの自由になる都市を世襲することはなくなっていた旧爵位であったが、それは大国とそれに従う小国という関係だった時代が、中央と地方という関係に変化していく過程には合わないものであった。そのため呉起が改正を試みたが、中央集権化の強化を促すその改革により多くの敵をつくりだすことになる。王権強化を進める官僚と世襲の特権を持つ貴族勢力の対立により、王の死後、呉紀は敗れたがその後の変法の進展具合は史記列伝に描かれておらず、いまだに不明となっているが、孫子・呉起列伝から封建制から君主制への移りわかりをみることができる。

<結>
史記列伝に書かれている「主人公」たちは、王を取り巻く存在たちであるが、2人の孫子や呉起だけでなく、多くの人物たちがきわめて流動的である印象を受ける。西欧の封臣と領主という関係とは大きく違った、中国独自の主従関係が描かれている。戦国時代、中国本土内に「国」が乱立していたが、今日いう「国」の概念とは、大きく異なっている。
春秋時代から戦国時代にかけて、鉄器の普及などにより農作物量は増加し、その結果各地に都市が増加して、それにともない中央が地方を統括する律令が発展していく中央集権体制が発展していった。中央と地方の明確化さが進む過程で官僚組織も整備されていくが、この時代に重きを置かれた政策が「富国強兵」であった。
中央集権化に伴い、身分のある人材の採用から、才能のある人材を採用し官僚制を強化していく時代であった。王たちは権力を一手に集中させるために能力重視の官僚たちを重用して行政の改革を試みた。
呉起の改革の結果は不明となっているが、法を変えようとした人物は他にも秦の商鞅、漢の申不害らが存在した。いずれも富国強兵を第一に考えた変法家であった。有能な人材は王を支える存在となっていったが一方、王の権威を脅かすほどの存在となり、君主の世代交代の際に処刑されるものも多くはなかった。
旧来の支配勢力であった貴族らの反撃により最期を遂げたものも多かったが、商鞅の変法が秦の一統を達成させた一因ともいわれるように、春秋時代の賢者たちを知ることはのちの秦漢帝国を支えた中央集権体制の根幹を理解するうえで重要であるといえる

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