『人はなぜ学ばないといけないのか』東洋と西洋の学びの違い

先日、福沢諭吉先生の『福翁自伝』を読みましたが、
きっかけは、斎藤孝教授の著書『人はなぜ学ばなければならないのか』の中で、
たびたび引用されていて気になったからでした。

現代人は、すぐに見返りを得られる勉強しかしなくなっている。

福沢諭吉は、蘭学を学びはじめたころ
「こんなに難しい書物を読むのはわれわれだけだろう。
だから学んでも(お金をとってだれかに教えることは期待できないだろうから)一銭にもならない」
と思っていましたが、

学ぶのが面白いからそれを学ぶ
福沢諭吉はそうした見返りをもとめない学びに没頭した時期が自分を育てた
とかたっています。

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私たちの快適で幸福な生活は
理科 数学 社会 言語 芸術など
人類がこれまで学んできたものの総体でできており、

自分たちがなぜ現在のような生活をおくれるのか
しっかり理解しなければならないと、斉藤教授はのべていました。

学ぶ意義について述べているこちらの本ですが、
3章の、「ソクラテスとプラトンはどんな手法で学んだか
では、現代の西洋にもつながる学びの方法について書かれていて必見です

特に 「そうだったんだ!!!」とカンゲキしたのが

「東洋の学びと西洋の学びの違いについて」
のページ。
サンデル教授の「ハーバード白熱授業」でもあるように、
西洋は「対話」が学びの基本構造なのですよね。
コレは古代ギリシアから続く西洋の基本スタイル。


たいして、日本の大学だと、
教授の話を受動的に聞くかんじの授業スタイルが基本ですよね。
これは、じつは孔子からつづいている基本構造なのだとか。
孔子にとって、深く学ぶことは、
本をよみ、先生に話をきくこと。学ぶということは、まず覚えることだった。
知識を頭に入れることが目的ではなく、
めざしたのは
そうした知識をさまざまな物事に応用できる柔軟性をもつこと。
だそうです。


こういう教育の上に、今の日本があるわけで、

では、このタイトルでディベートしてください
とか急に言われると、シーンとなるのは
まあ、しかたがないですね(笑)

冒頭で、現代人は、すぐに見返りを得られる勉強しかしなくなっている

と教授は仰せですが、

たしかに、そういう風潮はあるかと思います。


通信でも、そういう人、多いです。
慶應卒の肩書きがほしいとか、大学卒業の肩書きがほしいとか、
株でもうけたいから経済学部入った
とか
ちょっと意味不明なのも混じってますが(笑)

ただ、慶應通信では、
そういう人はすぐやめちゃう人が多いきがする・・・・

なぜなら、「すぐに見返りを得られる」ことはないからです。

結局 
この学問が好きだから 勉強がすきだから いろんなことが知りたいから
という動機でつづけている人が残っている気がします。

私は、そういう人たちとたくさん出会えたことが、
けっこううれしい。

最初は、肩書きがほしいと思って入学したひとも、
勉強つづけていくと、だんだん勉強がたのしくなって~という人もいます。
せっかくの学ぶ機会を大切にしたいですね

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