イギリスの封建制度の変化について

イギリスの封建制度は、アングロサクソン時代末期からすでに定着していたが、ノルマンコンクェスト以降は、領域諸侯領の構図をなしており、伯領を寄せ集めて作った国で、王権が強大だった点に特徴がある。イギリスは内政や戦争、さまざまな理由が複雑に絡み合い、13世紀以降になるとフランスやドイツの封建制度とは異なり独自の変化を遂げていく。そして、それは近代以降のイギリスの国家的枠組みの中核をなしていく議会制王制へと変わっていった。
イギリスの封建制度はいつから、どのように変化を遂げていったのかを理解するには年代順に分けて考えていく必要がある。

1、 ノルマンコンクェストとドゥームズディブック
1066年、ノルマンディ候ウィリアムの上陸によって短期間で大規模に、そして徹底的に征服が進められた。ノルマンコンクェストによって、フランスの封建制度が持ち込まれたが、イングランドでは被征服者の間ですでに家臣制に準ずる慣習があり、その影響で封建制度の浸透は容易にすすんだ。
ウィリアム1世は内乱を鎮圧するたび反乱者である旧支配層の領土を没収し、都度自らの臣民に封土としてあたえた。そのためイングランドの封建社会では、封土が複数の州に分散しており、大諸侯でも一円支配が実現していない点が特徴的である。
領土没収によりアングロサクソン旧支配者層の勢力の大半は没落、ノルマン人が政治の中心を占める体制に変わり、表面的には権力者の総入れ替えがあったが、イングランド社会の内部構造に大きな変化は見られなかった。土着の住民と比べると、征服者であるウィリアム1世らノルマン人は少数派であったため、住民への懐柔策として、集会の維持など、従来の政治的伝統は引き継がれていた。しかし、イングランド内すべての領土は王の保有地であり、一人の王が王国全体を直接支配するという体制のため、同じ時期の近隣諸国と比べて王権が絶大であり、大陸から移植された封建制度は、自然発生的に発生したほかの地域よりも体系化していった。
ウィリアム1世はイングランド制圧後、ドゥームズディブックという国勢調査のようなものを編纂し、封臣の領土、財産、封臣らの相関図などの把握をつとめ、税収の増加をみこんだ。王が陪臣とも関係を持ち、国民全体を直接把握しようとする意図をもつものであった。
彼の治世末期までには広大な領土が支配下におかれたが、イングランドはノルマンディ候の諸領地の一部という属領意識が強く、このころはまだ大陸領土の方に重きを置かれていた。

2、クラレンドン法とアンジュー帝国
フランス王領地より広大な領地を有するにいたったヘンリー1世の時代から、当時王権拡大を狙っていたフランス王家との武力衝突がつづいた。
ヘンリー2世の治世になると、土地に関する争いは暴力に発展する可能性があると考えられ、土地と刑法の根本的な改革によって、近隣諸国よりすすんだ政治体制が築き上げられていった。諸侯が領内でもろもろ行っていた裁判から、国王直轄の裁判所であるクレアレギスを各地に配置し王権の集中化を図る。
さらに、ヘンリー2世は、強大化する諸侯勢力や前王スティーブンの治世に過度に特権を与えられたイングランド教会の権力を調整するため、クラレンドン法を定めた。聖職者の犯罪についての裁判権の規定などの項目でイギリス教会との衝突が起こる。その衝突は1170年、カンタベリー大司教トマス・ベケットの暗殺により国際問題化し、教皇庁との関係が悪化し、結果クラレンドン法の制度化は失敗した。

この出来事はイングランド国内の行政機構の整備による王権強化を諸侯に意識させていく。中央集権化により諸侯の伝統的権利の侵害がおこなわれ、王と諸侯の対立はのちのマグナ・カルタに発展していった。
対イングランドの封建制度の特徴の一つに、強力な軍隊つき封建制度があげられるが、ヘンリー2世は武器携行令を発令し、全封臣の完全武装を義務化した。イングランド王は依然としてフランス王の封臣の一人であったが、対立が続きリチャード1世、ジョン王の時代に進むにつれてアンジュー帝国は解体の方向へ向かっていった。

 

 

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