イギリスの封建制度 マグナカルタ以降について

3、マグナ・カルタ
王権の伸長を狙っていたジョン王は、封主であるフランス王に逆らい、戦争に負け大陸領を没収された。ジョンは王の封建的諸権利に基づき統治をし、権利の侵害も盛んに行っていた。そのためしばしば諸侯と王の意見の食い違いから衝突が起きていた。さらに、彼の治世下に進んだ行政統治機構の整備は諸侯の権利をさらに制限するものであり、中央管制による新たな勢力の台頭は、旧勢力にとって反感を増大させる原因の一つともなった。

彼が大陸奪還のための戦費を補うために要求した税徴収は圧政的で不当であるとし、さらに、ジョン王の敗北による大陸領没収は王に問題があると考え、諸侯たちがマグナ・カルタをつきつけるにいたる。
王も法と慣習の制約のもとに、自己の意思に従って統治することは許されないというイングランドの伝統を再確認させたマグナ・カルタは、強化に向かう王権と、封建諸侯の利害関係の衝突の結果うまれたものであり、封建反動であった。諸侯にとっては封主としての権利を国家によって保障させる意図があったが、マグナ・カルタの成立は封建制度の解体から議会制へ向かう転換点であった。

4、 ヘンリー3世とシモン・ド・モンフォール
マグナ・カルタ以降、封建付随義務による収入が失われただけでなく、王権は大幅に制限されていった。戦争の敗北によって、オックスフォード条款が諸侯らによって提唱され、十字軍の戦費徴収に関する検討と引き換えに、王に対する問題を吟味するパーラメント(封建集会)を年三回開催し、統治は王と諸侯の共同体制にすることをヘンリー3世に約束させた。さらに、ウェストミンスター条款という、騎士・下級諸侯保護を目的とした条例が発令され、さらに王権縮小がせまられることになる。
王は諸侯の集会を公共の代表だと考えていたが、諸侯たちは自らが国家の行政的執行権利を掌握しようと考えており、それに反発し、マグナ・カルタを放棄したヘンリー3世とレスタ伯シモン・ド・モンフォールの争いに発展した。最終的に国王側が勝利したが、諸侯による権力強化の野心を目の当たりにし、当時の皇太子エドワード1世は政治改革の必要性を認識し、即位後、対諸侯政策の立法をたてていった。

5.エドワード1世以降の新封建体制
封主と封臣の関係が形式的になっていき、もはや税制上の制度に転下していたエドワード1世の治世になると、経済発展などによる新しい社会に順応するために複雑、変質を遂げた封建制度を再編成し、王権の拡大に結び付けようと整備拡大をおこなう。
王は封主と封臣の支配関係が弱体化するかなかで、支配を広げるには既存の地域共同体を利用するのがいいと考え、一般勢力家とも接触を図り、封土支給によらない新しい主従関係を築き上げていった。
貨幣やパトロネージを通じて主従関係が設定され、おおくが、行政機関や司法機関に依存していた。従来の封建制度とは違い、世襲制ではなかったが、社会的流動性を生み出した。この新封建制は、イングランド貴族の支配力に役立ち、のちのジェントルマン体制につながっていく基礎となった。
最高位の封主として、国王の権利を確立しようとしたエドワード1世は、封臣が封土をさらに別人へと下封することを禁じ、封建的奉仕が名目化して封主が損をこうむるのを防ごうとして、クィアレンプトーレス法を制定した。
対諸侯対策により制定された立法により、エドワード1世の治世は、封建王制から議会王制に変わっていく。今までは王の周りで政治的助言を与えていたのは諸侯たちであったが、パトロネージにより主従関係を結んだ官僚たちがその地位にとってかわった。
エドワード1世は、さらに諸侯の勢力がこれ以上増大しないように、領主裁判権に制限をもうけたが、諸侯はマグナ・カルタを引き合いにだして対抗した。
しかし、この問題はマグナ・カルタの内容に即したものとは違ってものであり、大した効力をあげることができなかった。結局諸侯は自主権を失い、王権のもとに組み込まれていくのを避けることができなかった。

<結>
中世初期、貴族身分はイギリスにおいては流動的であり、財産によって上層農民が諸侯やナイト階級になることも可能であった。エドワード1世以降になると、議会制の発展により、貴族身分が確立し、新封建体制は貴族の支配力の維持に役に立っていった。
一方、王権による中央集権化がすすみ、百年戦争やばら戦争を経て、中世より権力の中枢に存在していた封建諸侯の力は衰えていった。
封建制度解体期には、テューダー朝下で絶対主義王権が誕生するが、官僚制は未発達であり、常備軍も持たずに、地方自治体権力者の協力によるものが多かった。
絶対主義下でジェントリ層の提携がすすみ、議会の中の王という、他国にはないイギリス特有の絶対王政であった。
ヨーロッパ大陸の諸国家よりも議会の力が強かったイギリスでも、近代になると絶対主義の反発から、市民革命が起きたが、フランスとは違った革命の結果をもたらし、それは産業革命をへて、大英帝国の根本をなすものとなった。
近世以降のイギリス国家の歴史を理解するうえでも、中世の封建制度がどのように変化をとげ、新しい国家体制を形成していったのかを念頭に置いておくことはきわめて重要である。

【参考文献】
●川北稔編『新版世界各国史11イギリス』山川出版社1998
●朝治啓三、渡辺節夫、加藤玄『中世英仏関係史』創元社 2012年
●マルクブロック『封建社会2』新村猛、大高順雄、森岡敬一郎、神沢栄三訳 みすず書
房1977年
●マルクブロック『封建社会1』新村猛、大高順雄、森岡敬一郎、神沢栄三訳 みすず書
房1973年
●エドマンドキング『中世のイギリス』吉武憲司監訳 慶鷹義塾大学出版会 2006年
●城戸毅『マグナカルタの世紀』東京大学出版会1980年
●A・ジェラール 序J・ル=ゴフ『ヨーロッパ中世社会事典』池田健二訳 藤原書店 1991年

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