古代オリエント考古学?のレポート3ヘレニズムとユダヤ プトレマイオス→セレウコス朝下に置かれた パレスティナにおけるユダヤ人の抵抗

古代オリエントのレポートその3です。


3、プトレマイオス→セレウコス朝下に置かれた パレスティナにおけるユダヤ人の抵抗

前301年、イプソスの戦いでプトレマイオス朝の領土になったパレスティナは、ヘレニズム文化が流入し、生活様式の変化や思想の変化を生み出した。ヘレニズム都市が建設され、ユダヤ人社会の上層部はヘレニズム文化を歓迎しており、彼らはのちにサドカイ派と呼ばれることになる。

一方、ヘレニズム文化が律法や預言者の教えに背いていると考えた人々もおり、彼らは結社をつくり、それはのちにパリサイ派やエッセネ派が誕生するきっかけとなった。

ヘレニズム文化はパレスティナ以外の地に住むユダヤ人からも歓迎された。ユダヤ人たちはギリシア人のような名前をもち、ギリシア文学や哲学を理解した。

 

 

しかし、前198年パニオンの戦いでパレスティナやフェニキアはプトレマイオス朝からセレウコス朝の領土になる。当時、ユダヤ社会の中心であったエルサレム教団は、セレウコス側を支持したため、アンティオコス3世により、エルサレムは自治権をあたえられ、さらに3年間の免税なども得た。

しかし、アンティオコス4世の時代になると、状況は大きく変わっていく。王はエジプト遠征の帰りにエルサレムで神殿を略奪し、大殺戮をしたり、エルサレムを自治都市から兵士入植地へと格下げしたうえ、安息日と割礼の禁止を命令し、さらにはハヤウェ神殿はゼウス神のものに変える処置などをしたことにより、ユダヤ人は不服の気持ちは高まっていった。

パレスティナでは、紀元前166年以降になるとユダヤとセレウコス朝の戦争に発展していく。抵抗戦争にはユダヤ人の市民階級、低位の祭司階級、宗教家が参加したが、ヘレニズムの影響を受けた貴族階級や高位聖職者は親セレウコスの立場をとり、ユダヤ人内部での争いもおこっていた。

アンティオコス4世の死後も抗争は続き、現状維持派と完全独立を主張するマカベイ家の対立がおこった。

前152年、マカベイ家のヨナタンは空位だった大祭司職に就き、これまでの方針を転換し、親セレウコスにまわったことで戦争は終了する。ヨナタンは、エルサレム教団に与えられていた特典を更新してもらい、前142にセレウコス朝が完全撤退した際、エルサレムは独立国家のような形態を築きあげていた。結局、紀元前63年、ポンペイウスの侵攻までマカベイ家はダヴィデ・ソロモン王国並みの領土を有していたが、親セレウコスになったことによりヘレニズムと融合した王家は宗教色を失っていき、ユダヤ社会との距離がはなれていった。そして、ユダヤ教自体も、ヘレニズムを取り入れるか否かで分裂がおこったまの状態が続き、それはローマ時代のキリスト教誕生に大きくかかわることになった。

 

 

≪結≫

セレウコス朝はバクトリアを通じてインドとの接触があり、ヘレニズム時代に、市場の開拓が進んだ。シルクロードが繁栄したのがこの時代からであった。

プトレマイオス朝下では、ギリシア文化と東方文化の融合の結果、首都アレキサンドリア中心にギリシア語を共通言語とするヘレニズム文化が花開いた。

アレクサンドロス大王による古代オリエント世界の支配は、これまで閉鎖的・地方的であった文化や経済活動を、古代世界全体に拡大するのに貢献し、のちのローマ帝国拡大の過程において、大きな影響を与えることになった。


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≪参考文献≫

小川英雄、山本由美子『世界の歴史4 – オリエント世界の発展 (中公文庫)

市川裕『ユダヤ教の歴史 (宗教の世界史)

P.プティ、A.ラロンド『ヘレニズム文明 地中海都市の歴史と文化』北野徹訳

 

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